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2010年9月29日

700g

普段使いの鞄に入れられる標準的な重さは僕の場合700グラムということがわかった。

どこでもインターネットにつながる環境が整備されてきたから、パソコンからハードディスクの必然性が消えSSDになり、プロセッサが省電力省性能になり、放熱機構もシンプルで軽くなり、バッテリーもリポ電池ですむようになって、まあようは重要が軽くなった。パソコンがパーソナルでありパーソナルなデータを保持してないといけない、という時代から、パーソナルなデータはクラウドに預ける時代になったことで、パソコンの重量を圧倒的に軽くできるという空白地帯を生み出した。

そうして生まれたのがネットブックやiPadやVaio P、言い方によっては携帯電話やiPhone、スマートフォンもそうなのかもしれない。いまではDynabook AZなんてのもあるみたいだけど。

より携帯電話に近い方が、ハードとOSが接近していて、WiFiがないから3Gネットワークで通信、みたいなことがよりスマートにできる。コンピューターに近い方がそういう点では面倒だけど、ブログに書いたりとか、一瞬の「タメ」みたいなものを必要とするものにはより向いているのだろう、と思う。へんてこな文を見るたびに、予測変換の作り出した文なんじゃないかとか、一度も見直ししてないんだろうなとか、そういうのを感じる。まあ、それは、書き手の技量でもあるわけだけど。

iPadはその点で微妙な立ち位置にいる。携帯電話から派生して、携帯電話のルールで動くものの、大きさ的にPCであることも同時に求められたりして、それには答えられないでいる。たとえばPC版のiTunesとiPad版の「ミュージック」を比べてみると、体験として全く違うことがわかる。どちらかといえば、iPhone版に近いのだ、やはり。

iPad4.2になってそのあたりどう変化してくるのか、どう「iPadらしさ」を演出してくるのか、とさんざん期待していた矢先に、ベータ版が出たので早速入れてみたが、全く変化してなかった。これはよくない兆候だ。iPadというメディアを本腰を入れて立ち上げるのではなく、iPhoneと同じやり方で出しておけば誰かが何とかしてくれるだろう的なことを考えているのかもしれない。だがiPad周辺のアプリは閑散とまではいかないものの大賑わいというわけでもなく、このまま異端児扱いされて終了という展開が僕には見えたのだ。

iPadでなければいけないことというのは、電子書籍だった。電子書籍には最低でもSXGA+解像度が必要なんだが、iPadはそれをピンチによる直感的な拡大縮小機能でXGAで乗り切った。ただ、そもそも雑誌を買わない私のような層にとって電子書籍は魅力的ではあるけど、どちらかといえば部屋の片付けもかねて自炊というほうが性に合いそうだし、自炊するならなおiPadじゃなくてもいいわけで。
iPadの残念だったところはやはり、文字の入力について。ハードウェアキーボードには「慣れ」があるけれども、ソフトウェアキーボードに「慣れ」はなかった。iPhoneのフリック入力が秀逸だっただけに、iPadでそのままキーボードがべたっと表示されていたのはなんだか、という感じだったが、やはり問題だった。ここは、4.2で少し改善される兆しがあるので要チェックだが、IMEのダメダメなところ(変換操作が外付けキーだけで完結しないで、画面タッチしたりしないといけなかったり)はどうなるんでしょうか。
あと、デジタイザペンはやっぱり、あったほうがよかった。一度タブレットPCのペンでiPadの画面に書く真似をしてみてつくづく思った。もしiPadにペンが使えたら、絶対手放せないノートになったと思う。残念。

という流れで、iPad売りました。今では同じ700グラム前後のカテゴリーにいくつもモノはあるから、キーボード+3Gネットワーク+GPS対応のモノで遊ぶ予定。っていうかVAIO Pだけど。

2010年9月16日

iPad4.2betaを目前にして

ついにiPadでもiOSと名乗れる日が来ました。
といってもまだβバージョンで、iPhone Developpers Connectionのメンバーシップ契約をしてる人だけですが。

フォルダーとマルチタスキングがやはり最初に注目されるようですが、
iPhoneでのフォルダーは「全くほとんど使わないアプリをまとめておく」機能にしか使いませんし(それで十分っちゃ十分ですが)
マルチタスキングはボタンダブルクリックを占有してしまって不便です。(僕にはカメラ起動とのスイッチのほうが便利だった)
まあ、マルチタスキングの件はiPadには関係ありませんが、
これらの点にはそこまで期待していなかった、というのが本音です。

iPad3.2に対して思うのはAppStore・iPod・ビデオのUglyさ、時計や電卓などの機能の少なさ、カレンダーの操作応答のなさなどだったので、むしろそちらがどう改善されてくるのかが気になります。

初期ベータ版ということで、いろいろな機能が実装されていなかったり暫定的だったりすると思いますが、一応ヒトバシラーになっておこうと思います。インストールしても、細かいことは正式リリースまでは書けないので今のうちに。

2010年9月14日

【雑感】さいきん思ったこと

コンビニの商品。商品数が減っている?
ところで飲料水のバリエーションも少ない。サイダー、水、果汁入り砂糖水とコーヒー紅茶お茶類。
乳酸菌飲料が飲みたいとなると、ピルクルしか選択肢がなくなる今日この頃。
一時期はやったアミノ酸飲料もすっかりなくなったなー。

YAMAYAなどの平行輸入版の炭酸水は炭酸が抜けている?
自作した炭酸飲料と同レベルの炭酸量。
ゲロルシュタイナーの500mlペットとか飲んでみると強炭酸でいいのだが安売りで98円。高い。

ジョギングのときのドリンク作り。1リットルの水に塩ひとさじ、にいろいろアレンジする。
プロテインを入れるときは砂糖でバランスをとる。
紅茶とかカフェインが少し入っているとよりいいらしい。
肝心の走りのほうは、4〜5キロはちゃんと走り続けられるようになったけど、9分/km。だいぶ遅い。
まだまだこれから。

水泳が速く泳げるようになっておもしろい。でも自己満足だなー。せめてタイムくらい計れたらいいのに。
今の速度の指標は、水底のタイルが流れる速度。
いろんな人の泳ぎを見ているのが楽しい。速い人はとくに参考になる。
ほとんどの「普通」な人は、力の入りすぎでぎこちない。速い人は動きに停滞がない。
海外(アジア系)の皆さんはゴーグルしないで泳いでいる人がいる。なのに頭出し平泳ぎでなくて、頭出しクロール(!)をする。見ている方が首が痛くなりそう。
おじいさんが古式泳法をしていたのはおもしろかったけど、50m完泳コースでそれをやるのは迷惑。公共のものにマナーは大事。
昨日ものもらいをもらったらしく、目が痛い。
ちなみに、フィットネスの効率を考えると、2時間泳ぐより2時間走った方がいいようだ。

子どもが脱衣所の脱水機で遊んでいる。20秒程度ボタンを押してください、という指示が書いてあるのだが、「30秒が最高」とか「ちょうかわかわ」(とても乾いているの意)とか云っている。そして群がる。順番を無視する。「親はどうした」と宣うのではなく、誰でもいいので大人がそこにいる、というのが大事。
ところでそのプール、男子更衣室の作りがまったくもっておかしい。先の脱水機は、更衣室出口のドアを開けると丸見え。ロッカーも丸見え。ところどころついている窓からは男子トイレやロッカーが一望できる。減る物じゃないし別にいいけど、別に見たくもあるまい。

東芝がDynabook AZというのを作った。
お得意の○○周年記念モデルというやつで、snapdragonのノートPCスタイルのAndroidマシーン。要するとクラムシェル型iPad。
ちゃんとAndroidに触ったのは初めてで、おもしろかった。でも3GWANやWimaxには対応していないらしく、なんじゃそりゃ、という迷品。
記念モデルといえばW100も見てきた。こちらは要すると折りたたみ型iPad…?いろいろ気は遣っているがやはりWindowsからキーボードは取ってはいけない、という訓戒を改めて思い起こさせるモノ。
東芝の記念モデルは、おもしろそうだが、買うのは待った方がいい。

最近、高齢者相手のパソコン小話をやった。Dropboxとクラウドの話。
あとで職員さんに聞いてみた。ドロップボックス=お菓子の箱と思ったようだ。
同じサービスを違う名前で展開する必要もあるかもしれない、と思った。

フィットネスをする目的は、最初は筋肉をつけて基礎代謝を上げて体重を減らしていく目論見だったけれども、
筋肉をつけてもつかってやらないと代謝が上がらないことがわかって有酸素運動を積極的に入れていくよう方向修正。
おかげで徐々に効果はでている。

お稽古という言葉があるけれど、あの「お」は美輪さんが「おシャンソン」と呼んだのと同じ「お」か、と思うような実践もあるんだなー、と思った。

連絡をとりたくない人ができた。
いままで連絡を取らなかったのは複数の色々な理由があるが、連絡を取りたくないというのは非常に非常に希だった。
今は確実に、連絡を取りたくない人がいる。そうやって距離を置くことが今の自分にとって大事だと思った。
アキレスと亀の話がある。時間を考慮に入れるとアキレスは亀を簡単に追い越すことができる。
時間を考慮に入れないと、アキレスは亀を永遠に追い越すことができないのだ。
思索をする時間、あーだこーだいう時間、ごちゃごちゃいう時間、社会通念的な時間、これを配慮できている人とできていない人との会話は成り立たない。
ホーキンス博士は、宇宙の始まりに神はいらない、という趣旨の発言をして、各宗教の代表者がそれぞれコメントを出した、という記事が出た。宗教者の云っていることも尤もだ。大事なことは、ホーキンス博士は有名だがあまりに単眼的でトレランスがない、ということだ。
こういった対立に、反論は認められない。詭弁術も矮小化も話題のすり替えも認められない。これをどうにかして受け入れたいのか、否定したいのか。それ以外の選択肢はないのだ。

まあとにかく時間というファクター。情報化によって時間や空間の隔たりはある程度自由になったはずなのに、それを拒む苦手意識というのが、今のもっぱらの研究テーマなんだが、いざ目のあたりにすると、はてどう改善したものか。

民度の低さというと程度の悪さのように聞こえるが、実際は価値観の相違だ。「金がかかるから改善する」という変化の動機はあまり好きじゃない。長電話で金がかかるからICT化、というんではなしに、短い電話で意味をきちんと伝えられるようになりたい、という動機のほうが好きだし、そうありたい。とかく、思いつきで長さだけのコミュニケートするのは僕は好きじゃない。