写真修行中の身分としては、当たり外れで言えば外れのほうが多いわけで、
久しぶりに開いたゴミ箱の中のJPGファイルを見ると何百枚と失敗写真が捨てられていて。
フィルム時代に写真を上達するのがどれだけの(経済的、時間的)投資と専門性があったんだろうと、夜らしい空想をしたりして。
いまは「当たり」判定でも、森鴎外「舞姫」よろしく
‘‘五年前の事なりしが、平生(ひごろ)の望足りて、洋行の官命を蒙り、このセイゴンの港まで來し頃は、目に見るもの、耳に聞くもの、一つとして新ならぬはなく、筆に任せて書き記しつる紀行文日ごとに幾千言をかなしけむ、當時の新聞に載せられて、世の人にもてはやされしかど、今日になりておもへば、穉(をさな)き思想、身の程知らぬ放言、さらぬも尋常(よのつね)の動植金石、さては風俗などをさへ珍しげにしるしゝを、心ある人はいかにか見けむ。’’
http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/682_15414.html
などと後悔する日もいずれ来るはずで、じゃあ今はなんなんだという、これまた夜らしい感覚にとらわれながら。
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「人のためにしたことが回り回って自分に返ってくるのだ」という言説に反論する気はないけども、「自分のためにしたことは自分のためにはならないのだ」という言説に触れると少しばかり色が違う。自分が欲しいから。自分がやりたいから。それはあえて他人に言うことじゃないかもしれないけど、その存在を否定したらやってらんないよなあ、と感じたり。
「人のためにできる何かがあるんだ」って気持ちが萎えるほど自己評価を下げる前に、自分のためにしてるんだ!と開き直るのは大事な構えだと思ったり。その結果を人のためにすればいいわけで。(そのためには「自分」がはっきり軸をもって活動しないといけないわけだけど)
愚直で成功しない人に「他人のために何かできるか」と問われれば、業をきわめることだよ、と
「へうげもの」あたりに影響されてるのかなー。忠は大事だけど、業も捨てがたい。
あ、でも、他人様の人生の悪影響にならないように。
以上、雑記でございました。
追伸 写真ブログを作ってみました。お気軽にコメント残していってください。
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