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2008年4月17日

技術立国?

日本は技術とともにあったわけではないというと語弊がある。電子技術とともにあったわけではない。

和算の文化では、算術の発展とともに算木、算盤といった論理計算の支援ツールが開発された。
電卓が導入されたのは明治時代であり、このとき学制によって洋算が導入された文化が、今日も続いている。洋算が導入された後に電気計算機が登場したこともり、今では和算文化は保護しなければ滅亡しうる立場にある。

日本の技術は、むしろ明治以前の土台があるのではないだろうか。
算木は5進法で演算するツールだが、日常生活は5進法だったのだろうか。(つまり、八百屋に行くと値札に算木表記があったのだろうか?)とすると、当時漢字があるはずなので、違いそうな気がする。
その後、筆算ができたそうなので、平面があれば複雑な計算ができたが。外で書くという時代ではないはずだ。
算盤はイノベーティブで、5進法の計算がどこでもできるようになった。モバイルだ。ものづくり技術の精度は、算木や書字(筆算)に比べてはるかに高かっただろう。しかしその技術も、算術が身についていなければ使えない。
どれほどの人が算盤を使いこなしたのだろう。(あるいは、どれほどの人が筆算の段階でとどまったのだろう。)興味深いのは、数学の問題が解けたことを神に感謝し、神社なりに「算額」という絵馬状のものに問題を書いたものを奉納したそうだ。文化の中に、算術を共有する機会があった、ということだろう。(これは日本独特の文化なんだそうな)
電卓ができたのに、現代ではそういう文化はない。そのあたりに、なにか違和感がある。

おもしろいことはまだある。日本には四季があり、梅雨があり、雪が降る。だから、外で記号演算をすることはイコール暗算・暗記するということだった。算盤はそういう意味で革新的で、外で記号演算ができるようになった。現代はなんとなく、その辺の歴史を繰り返しているような気がする。本にしても、読書はするがメモはしない。でも、(算盤にかわって)携帯電話が登場して、傘を差しながらでもインタラクションできる機械が登場している。そのせいかどうかは知らないが、掲示板やコミュニケーションサイト(mixiのような)が流行し、頻繁に行き過ぎる人がでるほど発展している。
現代の携帯電話、サービスは非常に進化した。ユーザーがサービスの途中で滞留しないよう、あの手この手で支援している。しかし、その方面は産業方向への偏りが著しい。
なんとか、科学ないし学問の方向性でそういうサービスを展開できないものだろうか。

算盤は経済活動と平行しつつ、算術は発展していた。
生活水準と乖離した算術は、統計学やマーケティングと平行した。
統計やマーケティングとも乖離した算術は、物理や天文学の水準と平行する。
算術は、他の領域があって発展しているような気がする。

心理学はまだ生活の水準にとどまっている。それは人を対象とする学問であるから当然ではあるが、
他の領域と組み合わせることでさらに発展しそうな気がする。

道具は理論に追随する。
理論を育てるのは小中学校、学ぶのは高校大学の、理論を作り出すのは大学院の役割。
その拠点が何らかのサービスを、傘を差しながらでも実施できる道具として展開できないものだろうか。

軽薄短小・防水・耐衝撃・タフブック+数学ポータル+タブレットかな。

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